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<<   作成日時 : 2006/09/29 00:00   >>

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●ゲド戦記

監督:
  • 宮崎吾朗
原作:
  • アーシュラ・K.ル=グィン
声の出演:
  • 岡田准一
  • 手嶌葵
  • 菅原文太
  • 風吹ジュン
  • 田中裕子
  • 香川照之
  • 内藤剛志
  • 倍賞美津子
  • 小林薫
  • 夏川結衣



世界の均衡は崩れつつあった。
エンラッドの王子アレンは父である国王を刺して国を逃げ出した。大賢人ハイタカ(ゲド)は世界の災いの源を探す旅の途中、影に怯えるアレンと出会う。共に旅をする中でアレンは顔に火傷の跡が残る少女テルーと出会う。彼女はハイタカの昔なじみテナーの家に身を寄せていた。ハイタカはクモと呼ばれる魔法使いが生死の境界を崩そうとしていることを突き止めるがクモの魔の手はアレンへと伸びていた……。


今回、全6巻の原作の中の第3巻の物語を映画化。またコンセプト部分を宮崎駿著『シュナの旅』から引用している(※『シュナの旅』自体、ゲド戦記の影響下に描いたものと宮崎駿は公言している)。



う〜〜〜ん……。
面白いか面白くないかという前に映画として確実に不出来。

まず、誰の物語かがまったく分からない。

ハイタカが物語を運び、アレンとテルーの関わりが中身もなく描かれ、アレンの心が語り、テルーが走り、アレンがヒーローとなり塔を駆け上がる物語の中で誰を見ればいいというのか。

そもそも導入部は世界の状態を客観的に描くことから始められており、アレンの初登場時に特別なことを用意しなければ彼が主人公の立ち位置になりようもない。

序盤のシーンを単純に、アレンが砂漠を走る場面から入り、意識を無くした後、夢の中の回想という形で導入部のエピソードを挿入し、うなされ、ハッと目が覚めると……という流れにするだけでも大分印象は変わる。



登場人物の動作と台詞に"間"というものをまるで考えていない演出。

序盤、ハイタカがアレンを旅に誘う場面でも、出発の支度をする動作にただ台詞を当てはめるだけ。誘うハイタカの心、誘われて戸惑うアレンの心、というものを演出していない。

アレンがハイタカに名を訪ね、それに答える場面の意義など考えてもいない(この物語にとって名前は重要なポイントのはずなのに)。溜めて振り返らせ堂々と名乗らせましょうよ。

根本的に「世界がおかしくなっている」ことがまるで実感できないのも問題。アレンが抱く虚無感は世界と無関係ではないのに(※後述あり)。

最初の街こそ観客が世界を理解する手立てなのに、そこではただ設定を並べるばかり。ここで表社会から段階を踏んで、奴隷売買、麻薬、人狩りといった裏社会を実感させていけば、せめて彼が抱く嫌悪感を共有できたろうに。



エピソードを羅列しても物語にはならないお手本。

「まさかな」という台詞を違う人物が2度使う点など、映画全体を把握できていない証拠です。



まあ、扱き下ろすだけでは芸がないので少し理解してみます。
(以下、ネタバレ含むので注意)

アレンは"生"を軽んじる現代の若者であり、世界は混迷を極める現代社会の反映です。世間と遊離して生きる王子という存在は現代に引きこもる若者。生きる意味を見いだせない若者が、世間に溢れる生の無価値さに虚無感を募らせながらも、ひとつの出会いから生きる意味とは何かを得ることになる……てなところでしょうか。

現代の若者に向けたメッセージ作品。それが本作の正体。
しかし、それを「感じさせる」ことは出来ずに「語り続ける」ことに終始。哲学書じゃないんだから聞かせてどうする。言葉が多すぎて、逆に何ひとつ頭に残らないし心に響かなかった。



アレンの恐れの本質を描写していないため、彼の内面描写も抽象的に終わっている。そんな人物に感情移入など出来やしない。
映画冒頭にアレンの日常描写を少しでも用意し、例えば部屋で飼っているインコか何かを鳥籠から出して、おもむろに首を捻って殺す、という描写を入れるだけでもいいのに。



一応、アレンの恐怖に特定の事例を提示しないことで、観ている人間が各々内包している問題を当てはめて補完してもらおうという計算があったのかもしれない(機能してないけど)。
しかし、そうした若者に向けて作ったにしては、最後、大して胸に響かない言葉でアレンがあっさりと立ち直ってしまうのは如何なものか。

最後にアレンは自分の国に帰って自分の罪と向き合ってくると旅立ちますが、作劇上、そもそも父親を本当に殺したかどうかが曖昧にされており、多分に「実は父親は死んでおらず、立ち直ったアレンは許されて、テルーの元を再び訪ねる」というその後を容易に想像させる作りになっています。

(※パンフを読む限り、父殺しは宮崎吾朗の心の反映の模様。本作が現代の反映となったことも自身を投影した結果だと自己分析していた。しかし、演出コントロールが稚拙なのか、父を「殺しきれない」のか、結果は上記の通り)

甘い。大甘です。

あの物語は「国に帰ったらもちろん父親は死んでいて、親(王)殺しの罪で裁判にかけられ、死刑が確定し、立ち直りながらも刑が執行される」というエピローグをエンドロールのバックで無声で流し、「死刑執行がされたその頃、テルーは畑仕事の中でアレンが再び訪ねてくることに思いを馳せていた……」ぐらいのアンハッピーエンドを用意しなければ、作り手が想定しているであろう若い観客たちの心に爪痕は残せやしませんて。



あと違和感を感じた終盤の演出について2、3。最期の「あの子たちは?」「大丈夫、あの子たちには翼がある」という台詞。これってあのまま旅立っていく時に発する台詞だよね。でもハイタカらに挨拶に戻る2人。前後の流れよりも「翼がある」の台詞を言わせたかっただけやん。アレンは「国に帰る」と言ったのに、エピローグでテナーの家での生活描写が入る間の悪さ。確かに畑を耕す手伝いをやりきってから出発する方が正しいけど流れとしては変。だったら「国に帰る」の後に「手伝いをやりきってから」という台詞も必須。



所詮、宮崎吾朗監督はただの人。
こういう批判は「想定の内」で、偉大な父の「重圧」の中で「初監督作」なら仕方ない……って、結局、親の七光りには変わりない。

いいなぁ、ただの人がジブリで映画作れちゃうなんてさ。

★★

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